9月3日

バイト終わりに、近くのラーメン屋さんに寄って食べていると、

mahinaの「every day」が流れていた。

 

妙に聞き入ってしまって、しばらくの間

ただ、らーめんどんぶりに反射する照明を見ていた。

 

自分はどんな仕事でも大丈夫だと思っていたけど、深呼吸をしたくなって、意外と疲れていることを知った。

 

今日は一段と、私のアパートから見える景色が好きだ。

私のアパートは、私だけが使う階段があって、私だけが使う踊り場がある。

そこは3階で、通りの裏側で、離れた駅に立つ小さなタワーが見える。

いくつも連なったマンションも見える。

静かに照らされ点滅するタワーと、マンションのひとつひとつの窓の明かりで、私はほっとする。

「ここには誰も来ないなあ」という気持ちと、「誰かがどこかにいるんだなあ」という気持ちを、持てることで。

 

 

ルッキズムを自分に向けない

昔の写真を見て、「うわ、すごいブスだな」って思うことってあるでしょ。

当時は最大級に盛れたと喜んでいたのに、最高に似合うファッションだと思っていたのに、数年後「きも」って思うことあるでしょ。私はある。

毎日がその繰り返し。引いてしまう、自分に。

鳥肌が立って、「よくこれで生きていたな」とゾッとする。

 

でも、私はもうそれを止めようと思う。

昔の自分を気持ち悪いって思うこと。

 

ここ数年、醜形恐怖だった自分を俯瞰的に見られるようになった。

確かに、認知の歪みが、私のあの嫌悪感を引き出していたことを理解した。

それと同時に、病院にかかるほど私を追い詰めた環境のおかしさを知った。

 

今はもう、私はうんざりしている。

外見の差別がこの社会にはしっかりあって、自分含め多様な人に深く根付いているものだってことに辟易している。

容姿が醜い私が悪いのだなんて思わない。

断固として、見た目で人を攻撃したり同一の美をはかったりするような、ルッキズムに反対する。

 

そしてこう言うからには、自分への差別もやめなければいけないなと思う。

だって私もこの社会の人間であるし、自分を卑下する人の意見なんて説得力もないでしょ。

自分が1人の人間であると認めること、私みたいな人はとても苦手だと思うけど。

誰かのために、で生きられることってあるよね

もし私がとても辛くて死んでしまいたいとき、誰かが

「私のために生きて」

と言ってくれたらと思う。

あなたが居なくなったら悲しいから、とかでなくていい。

あなたが居なくなったら、貸したお金がパーになるから。

あなたが居なくなったら、これまでの悪口に罪悪感が生まれるから。

あなたが居なくなったら、ドタキャンされたときの穴埋め役がいなくなるから。

だから、生きていて。

 

そう言ってくれたら、私はもうちょっと生きられるだろうなと思う。

ただ、自分のためじゃなくて、誰かに迷惑をかけないように、役に立てるように、の方がずっと生きていく理由になる。

 

だから私も、誰かが死にたくなっていたら、「私のために生きて」と言う。

生きて、私の遊び相手になって。

生きて、私のドライバーになって。

生きて、私に美味しいご飯を食べさせて。とか。